東京家具会館譜

 是時、昭和二十年八月大東亜戦争も敗戦の暗雲の渦中に終末を告げ、首都大東京全域に亘り焦土と化す。翌年に至り占領軍による進駐となり、その宿舎整備が始められる。全国の家具業界は、終戦連結事務局より進駐軍用家具の生産調達の命を受け、都内在住全業者は東京都庁監督の下に交易営団よりの発注を見たるも、生産母体となるべき工場施設の大半は戦渦による焼失或は疎開等によって、不在或は消息不明等々具体的方策も立てられず多大の苦難に遭遇す。

 ここに在京家具業者一環となり、相互共同責任を分担、近くは関東・甲信越を始め、遠くは北に山形・宮城、南に愛知・石川等東奔西走生産工場を広域に動員、之れを傘下とする組織体制を確立し、東京都特殊家具生産協力会を設立、生産の第一歩を踏み始めたるも、広地域に亘る生産組織の掌握拠点となるペき事務所の設置個所の入手も不可能の状況にて、或る時は業者所有の屋内一部を暫定借用、或る時は青果市場の一部、又は焼失ピル跡地下室等転々として移転の為に、事務の遂行上多大の労苦と支障を来たし、再度困難の壁に当突す。

 ここに業者有志が集結し東京家具倶楽部を創立、初代理事長に星川豊吉就任、会館の設立を企画、建設委員長に浅田鎌太郎が就任、安井雄四郎の尽力を得、文京区湯島天神町一丁目を建設地として東京家具会館の建造に着手、然し当時は法規の上で建築制限基準一棟当り十五坪以内とされ、それに該当外の資材は受給なく止むなく協議の上会員相互の手持資材に依存し、自主的に之を拠出し、給付最悪条件を担いつつ会員日比野三郎がその施行担当を受諾、遂に延ニ〇〇坪に亘る木造建物が昭和二十三年春竣工、直ちに本部事務局を之れに移転進駐軍用家具生産を開始、同年二月に至り社団法人東京家具会館と発展的改称、組織の拡大進展を期し役員選出理事長に浅田鎌太郎が就任引続き所期の目的達成に努力す。

 昭和二十四年四月古谷松雄第二期理事長に就任、全国家具業界に於ける技術の向上、進歩、発展と共に地区組合連絡等斯業開発に尽力し来るも、昭和四十四年に至り営団地下鉄千代田線の開通に伴い会館内に同出入ロの誘致成功、これを機として老朽甚大の会館を周囲の懇望もありて改築を決定、ここに建設委員会を結成、古谷松雄、依田正美、安井雄四郎、辻 豊治、山口芳之助等の委員を選出して会館運営其の他種々協議し、組織強化と発展を目的にイハラ建成工業株式会社に対し会館建設の工事施工を委嘱、昭和四十五年一月現在の家具会館完成に至ったものである。

昭和四十五年庚成一月
  社団法人 東京家具会館
  理事長  古 谷 松 雄